保育園では、晴れている日はお散歩に出かけます。ある程度は計画を立てた上で戸外活動を行いますが、予定通りにいかないこともたくさんあります。
小さな子どもたちは、道を歩いていれば、花に目がいって触ってみたくなるし、虫を発見したらしゃがんで、じっと見つめたくなります。
たとえば、子どもがなにかに注目して立ち止まった時。保育者側が、子どものきもちを優先する意識が薄かったり、大人目線で「保育を回そう」と考えてしまうと、次のようなことが起こります。
① その子の興味に付き合っていると、「他の子たちが待たされる」と考えてしまう。
② 「ここで全体が止まると、保育園に帰るのが遅れ、食事からお昼寝までの流れが時間通りに進まない」
③ 「職員の休憩回しがうまくいかない」「掃除ができなくなる」
このように、どんどん大人主体に思考が回転してしまうのです。保育者の「こうしよう」が「こうしなきゃ」となり、結果として、ある一人の子の育ちにおいて大切な場面に気づいても、集団を動かすことが成立しなくなるため、それを優先できなくなってしまいます。
子どもが立ち止まっているのに、保育者が手を引っ張って進もうとしてしまうのです。「本当はこうした方がいいのに……」と、先生たち自身も悩み苦しむような負のループが起こってしまいます。
保育には正解がないと良く言われますが、不正解はあるのです。それは、「大人に合わせさせる保育」です。
これは逆の言い方をすると「子どもに大人が合わせる保育」になりますが、それをさらに「子ども一人ひとりに大人が合わせる」という意味を込めたのが、「十人十育」の保育理念です。
先のお散歩の例を、この理念に基づいて考えると、次のような思考になっていきます。
① 一人の子どもの突発的な行動や、ちょっとしたきもちの動きにも、保育者がていねいに応答しよう。
他の子たちはそれを見て、「なにがあったのだろう?」「自分も~」といった子どものきもちを他の先生が感じ取り、それぞれ話しかけたり、共感したり、一人の子の行動に巻き込まれていく。
そうなれば、応答してもらった「他の子」も、一人の子として主体になるだろう。
②食事やお昼寝が後ろにずれるかもしれない。そうなることで失うものと、得られたはずの大きな育ちの機会の優先順位はどちらが高いのだろう。
もうお腹が空いて機嫌の悪い子がいるならば、お散歩グループを先帰りチームと、寄り道チームに分ければ良いのかな。
そして寄り道チームの帰る時間遅くなってしまっても、別に構わない。いつもとは少し時間がずれたところで、1歳でもリズムはすぐに取り戻せるはず。
子どものきもちを無視してまで、大人側の休憩の順番や掃除のタイミングを優先することはないだろう。
② 本来、保育者の「こうしよう」という計画は、子どもの理解からはじまるもののはず。
保育者が「こうしなきゃ」と考えるチームだと、子どもを大人に合わせさせる・従わせる保育になりかねない。
「こうなっちゃった。じゃあこうしようか」と、子どもの状況や様子、きもちといった変化に応じてこそ保育なのだ、と考えられるチームならば、きっと、子どもを主体にした展開が広げられるでしょう。